神戸のシステム屋が24年間続けてきたこと
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ゆとりずむ 2019.01.19 UPDATE
24年経っても、多くの神戸っ子にとって1月17日は特別な日だ。 もっとも私は、当時小学2年生だったし、被害の軽い神戸市西区に住んでいたので、深い思い出はない。震災当日も呑気に幼馴染と学校へ向かっていたところ、電気が止まってつかなくなった信号のもとで交通整理をしていた教師に「何やっとんねん!はよ帰れ!」と追い返されたくらいだ。延々と続く安否情報に飽き飽きしながらも、少しでも明るく振る舞おうとしてくれた大人たちの姿はぼんやりと記憶に残っている。まだ当時は、本当の苦労は知らなかったのだ。 震災のことに関して、むしろ記憶に残っているのは、高校生の時分にインターンシップという名目で遊びに行っていた会社で受け取った「災害対応マニュアル」と書かれた小さな冊子のことだ。 地場のシステム屋が、リクルーティングと宣伝を兼ね社長の気まぐれで夏休みの期間に始めたものだったが、初日に「手の空いたときにでも読んでおいてね」とID・パスワードと共に配られたその小冊子のことは、他のどんな教材よりもよく覚えている。 災害が起こったときの連絡手段から、社内の備蓄の在り処、顧客との対応の仕方に、ボランティア参加時の心得など実に読み応えのあるテキストだった。オフィス近所のハザードマップがなければ、売り物と見間違っていたかもしれない。ケーキ屋の受注管理システムを構築する作業の傍ら、コラムやTipsなども含めて楽しく読み終えることができた。 この小さな冊子に込められた大きな思いは知るのは、数年経ったあとのことだ。
神戸でSEをやる方のブログ記事です。ヘルスナッジに取り上げるべきか迷ったのですが、やはり震災のあった日というのはこういったことも取り上げたほうが良いかなと思って取り上げました。
この記事を読んだとき、鳥肌が立ちました。
記事はマニュアル作りについて書かれた、「生きた資料の作り方」、被災地にボランティアにいくことについての「誰がために被災地へ行くのか」、防災対策について書かれた「明日のために続けていくこと」の3部構成になっています。
マニュアルを新しい技術やインフラが勃興してきたときにあわせて毎年読み合わせて変更を加えていること、ボランティアに行くことでさらにその対応が妥当であるものか考えマニュアルに反映させていくこと、そしてそれらを踏まえて毎年行う防災訓練。ここまでする会社が一般的になれば、災害時の被害や不安は減るのではないかと思います。
各地で起こる災害は不幸なことではあるし、起こってよかったなんてことは絶対にないし、震災が起きた意味なんて考えないけれど、それでも災害を経ることによって経験が蓄積され、こうして生かされ、被災した際の被害や負担が減っていくことができれば、それが「震災を後世に伝える」ということなんじゃないかな、と思っています。ぜひ、読んでいただきたいブログエントリです。
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